2010年10月23日土曜日

国政と高槻市政についての私の考え

 また、長期にわたって書込みを休んでしまって申し訳ない。今日は私の国政と高槻市政の関係についての考えについて触れたい。

 基本は、市場の競争に任せておけば全てうまくいくという自民党小泉首相が進めた市場原理主義による弱肉強食の国家施策の暴走をやめさせ、平和主義、基本的人権の尊重、主権在民といった日本国憲法の精神を支柱にした主体性のある高槻市の行政をすすめさせるということにつきる。

①憲法を守り、平和な日本の建設に邁進するということ
 高槻市は1978年3月22日に非核宣言都市となっている。これを発展させ、戦力の放棄と武力による国際紛争解決を否定する憲法の精神に基づき、核兵器の廃絶と恒久平和を訴える内実のあるものにさせる。
 違憲立法である有事立法、国民投票法、個人情報保護法、国民保護法などの国の強権的な実施に反対する。

②日本国憲法の精神と相容れない安保条約を廃棄させるため奮闘するということ。
 米軍基地反対闘争の最前線で闘っている沖縄県民に強く連帯し、沖縄にこれ以上の基地負担を強いることを許さない。日本の国土全域から米軍基地をなくし、日本の安全を確保するために奮闘する。

③市場原理主義を標榜する人たちが押し進める最後の構造改革である「道州制」や「地域主権型道州制」の実施や、その準備のための法案成立に反対するということ。地方自治体を彼らの利益のための草刈り場にすることを許さないということ。橋下大阪府知事が押し進める「大阪府財政構造改革プラン」による市民サービスの低下に反対、市民生活を守るということ。

 さらに、旧教育基本法前文の精神「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」という考え方からすれば、教育問題については次のとおり指摘しておきたい。
  
④教育の右傾化と能力主義一辺倒の教育に反対するということ。具体的にいえば、

 学校教育の場に「日の丸」や「君が代斉唱」は必要なのだろうかということ。
 戦前、「日の丸」、「君が代」は対外侵略を図った日本軍国主義の象徴だった。これらが学校教育の場に入ってくることに違和感をもたれることはないだろうか。「日の丸」「君が代」問題は単純明快、思想信条の自由を傷つけ、教育の独立性に不当介入ことになると思うのですがいかがだろうか。ましてや、教育委員会の指示に従わなかったからといって、教員に行政処分を行うなどはもってのほかと私は考える。

 特別な「道徳教育」は必要なのだろうかということ。学校で学ぶということは、学力を身につけるということだけでよいのだろうかということ。
 学校で学ぶということは、働くための力を身につけ、自然や社会についての正しい見方と新しい発見の土台を養うことを基本におかなければならないことはいうまでもない。能力至上主義の教育ではなく、お互いの協力関係を重視し、討論や助け合いを大切にする。そのことによって、一人ひとりの不十分さや欠陥が補われ、より正しい知識やより豊かな能力が開発され、そのことが本人にとってプラスであるだけでなく社会関係においても民主主義を支えることになる。こういう民主主義的な人間の人格形成を図っていくことが大事だと思う。
 小手先だけの改革である安易な2学期制の導入や小中一貫校の試みはやめさせ、30人学級で基礎学力をしっかり身につけ、豊かな人格形成が出来る教育体制を確保させる事がますます大事になっていると思う。
中学までの完全給食は食育の基本。完全給食に似て非なるもの、安易なスクールランチの導入には反対だ。

 たったこれだけのことである。しかし大変な事業でもある。今、この事業を成し遂げる勢力は少数派だ。しかしやり遂げたい。自分の力でやり遂げられなくても次の世代にバトンタッチしたい。これが私の基本姿勢なのだ。

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