2010年8月26日木曜日

民主党の高等戦術???

 民主党代表選に小沢氏が立候補するという。そしてそれに鳩山元首相が支援する構図である。この2人は世襲や政治と金の問題、沖縄米軍基地温存という失政で6月始めに退陣したはずである。鳩山氏に至っては次の選挙には出ないと言い、引退までちらつかせていた。ところが何を思ったのか再度歴史の舞台に出てくるという。これは支持率が下落して仕方がない菅内閣に対し、鳩山氏が音頭をとって小沢氏が悪役に徹し、身を挺して菅内閣の支持率を上げていく高等戦術ではないかと考えてしまうほどおかしなことだと私は思う。冗談もいい加減いしてほしい。

 これでもし小沢氏が勝つのだとしたら、民主党内の新自由主義勢力は一歩後退、民主党内の旧来からの自民党勢力が息づき・・・・わからなくなってきた。たぶんそんなたいそうな問題ではないのだろう。多数決独裁になれ、民主主義がわからない方々が衆参ねじれで政権運営に心配していること。次の自分の選挙がどうなるのだろうかということ。その心配だけで動いているような気がしてならない。政治も落ちるところまで落ちたとはこのことをいうのだろう。

 小沢氏に本当の勝利はあるのか。彼には9~10月にかけて刑事被告人になるかも知れないという危機が迫っている。いくら無罪推定されるといっても、刑事被告人が首相を続けられるわけがない。それでは菅氏に本当の勝利はあるのか。一時的に反小沢の国民の空喝采を得て支持率は上昇するかも知れないが、常に小沢氏の党を割る行動に心配しなければならないはめになる。こちらも勝利にはほど遠い。
 
 結局日本の政治を裏で動かしている人たちの勝利でしかない。勝利とは何か。もちろん大連立志向である。どんな勢力であれ、とりあえず衆議院で3分の2を確保するか、衆参ともに過半数をとれる勢力を作ることである。それで難局を乗り切ると称して小泉以来の悪政の限りを尽くす。何か妄想じみてきた。

 本当に困ったことである。

 
 
 

2010年8月22日日曜日

脳死と臓器移植Ⅱ

 昨日の学習会に、アメリカのハワイで交通事故にあい、運ばれた病院で医師から脳死を宣告され、臓器移植を進められたが家族がそれを拒否、ご本人を日本に連れ帰って治療して、体に何ら障害が残ることもなく治癒なさった方ご本人が来られていた。それを機会に脳死、臓器移植反対の運動をなさっているらしい。

 ただ、この話を、こうした全く障害が残らない方もいらっしゃるのだから、臓器移植処置を推進することには反対と単純には考えてほしくない。臓器移植の必要性のみから生まれた脳死や脳不全からの改善にも、現代の医学にはやはりその時代の制限があり、完全治癒ばかりでなく、いろんな治癒の段階があってしかるべきと考えるからである。最新の知見に基づく治療の結果、ご本人に重い障がいが残る場合だって当然ある。ご本人自身が脳不全状態からは改善したが、事故の際に腎臓に大きなダメージをおって人工透析をしなければ生活できない場合だって当然あるし(たまたま主治医が脳死移植推進派であれば脳死臓器移植をすすめられるかもしれない)、重度の脳障害が起こる可能性だってあるわけである。そのような場合であっても、昨日の最後にレシピエントの人権保障の項で述べたように、その方の人権が十分に保障されるようにすべきであることは言うまでもないことである。

 こうした押さえをしておかないと、人格のない人間がいるかのような錯覚に陥ったり、その人の人格が見えなくなったりしてしまうという誤りを犯し、人格のないものは殺しても何ら問題ないとの20世紀の最大の誤りを再び犯してしまうおそれや、尊厳死、安楽死に話が及ぶ可能性が全くないとは言えないからだ。

 この度の臓器移植法の改正で、私たちはそういうことを真剣に考えなければならない時代に否応なく押しやられたと考えなければならないのではないだろうか。

2010年8月21日土曜日

脳死と臓器移植

 今日は山口研一郎さんを招いての『脳外科医山口研一郎さんが斬る「脳死・臓器移植法」て何や?』の勉強会だった。山口研一郎さんは我が高槻市の誇る全国区の脳死・臓器移植の強力な論者である。

 これまで臓器移植はドナーカードによる本人の正確な意思表示を定めていたし、臓器移植の時に限ってのみ脳死が認められていた。関心があっても無関心であっても、脳死と臓器移植とを認め合う人たちの間だけの問題で事足り、この問題に巻き込まれることはなかったのである。

 ところが、これが7月17日の臓器移植法の改悪で、脳死臓器移植は一人一人が対策を立てねばならない問題になってしまったのである。何故か。臓器移植に拒否の意志をはっきり示していないと、いつ脳死判定され、臓器移植されてしまうかわからなくなったからである。しかし、「臓器移植拒否」の意思表示というのは大変難しい。ドナーカードはみんなが持っているものでない以上、早い話、破り捨てられら終わりだからである。前もっての勉強会では、体に入れ墨をしておかないとだめなのではという冗談まで飛び出したくらいである。冗談が冗談で終わらないところにこの問題の怖さが潜んでいる。

 今日も「臓器移植」の概念のないところに「脳死(正しくは脳不全)」概念もないと先生はおっしゃっていた。
 臓器を得たい(買ってもいいという人が当然のごとく含まれる)人と、臓器を提供してもいい(売ってもいいという人も含む)人が、医師の最新の知見によって結ばれているように見れるが、( )内と( )内を結びつけると、そこには商売が成り立つ。臓器移植で儲ける人たちの存在である。これは仲介業者だけをさしているのではない。医療産業、製薬産業その他移植医療にまつわる全ての資本をさしている。
 そして売ってもいい人たちというのは、自由意志で売るのではなくやむにやまれず売らざるを得ない人を私は想像するし、買ってもいいという人たちは、お金で何でも解決しようと考えている人たちという構図を考えてしまうのは私だけだろうか。移植医療は自己完結では終わらないということは誰でもが知っている。ここがこの医療の最大の欠陥であり、私からすれば医学的治療の名に値しない非医学的な処置であるということだ。
そこには「善行」賛美の裏に隠れた醜い「取引」が潜んでいると思えてならない。

 それではマスコミがよく持ち出す移植以外方法が見つからない患者をどうすればいいのだろうか。医師から移植以外に助かる道がないと告げられたとき、何とかそれにすがろうという気持ちはわからないでもない。しかし、それはレシピエントが移植は「医学的治療」であるということを考えているからであり、私のように「非医学的処置」と考えているものとの間には深い溝があると考えざるを得ない。今日も先生がおっしゃっていたが、「医療というものは、その人のためだけにある」ものであり、そこに他者の都合を考える余地のない行為だからである。

 臓器移植は人工物ではない正真正銘の他人の「異物」を自分の中に取り入れる「処置」であり、激しい自身の正常な免疫機能の抵抗を受ける。だから、正常な免疫機能を抑制する「処置」を一生受けなければならない。このために新たな疾病(癌や感染症など)を生ずることになる事もよく知られているし、さらに精神に異常をきたすこともあることも指摘されている。私からすれば、臓器移植は、体も心も自然体からすれば拒否していることをあえて実施する愚かな行為といわざるを得ないのである。

 私自身は、臓器移植を医学的治療とは考えないし、臓器移植しか残されていないということは、新しい治療法が出現するまで待たざるを得ないし、自分の生命がつきるまでの間にその方法が見つからなければ死を受け入れざるを得ないというのが当然の帰結になる。人の命というものはそういうものであって、それを事実として受け入れないからおかしな議論が出てくるのである。ここでいう死はあくまでも誰にでもわかる死、三徴候死であり、脳死ではない。脳死は臓器移植したい人たちがわざわざ作った概念であり「脳不全」が正しいというのが今日の勉強会での理解である。

 ただ、忘れてはならないのは、移植医療を待っている人たちの人権については最大限の配慮をすべきだということだ。もちろん、私は「移植を受ける権利」なるものは存在しないと考えているが、移植以外の最新の知見に基づく正真正銘の治療のための医療費については無料化が必要だろうし、早期発見の体制や日本のどこに住んでいても最新の治療が受けられる体制づくり、青少年期の場合には教育保障なども重要な課題になってくる。勤労者の場合は休業補償の確立が必要だし、障害者としての認定と介護保障、所得保障等健康で文化的な最低限度の生活を保障することが課題になってくる。生活の場所の確保も必要かも知れない。ここでは移植推進派も移植否定派も手を握れるということである。ここを大事にしながらこれからの論議を進めていきたいと思う。

 しかし、この度の臓器移植法はあまりにも問題の多い法律である。許容範囲は旧法までである。最低限旧法に戻せということを最後に主張しておきたい。

2010年8月19日木曜日

暑い!

 暑い!
 今日も車を運転していたら、外気温は40度となっていた。暑いはずだ。

 こんな暑い思いをしているのに、軽井沢の別荘にみんなで集まって気勢をあげたグループがあるらしい。どうも、世襲や政治と金、利権、政治権力といったものに興味がある人の集団らしい。9月の民主党代表選挙の決起集会にしたかったのか、単に存在感を示してネクスト内閣でポストを要求したかったのか私にはよくわからない。

 あるホームページにこんなことが書かれていた。

 「民主党は三つの構成部分からなる。執行部を握る新自由主義派(頭部)、自民党利益誘導型政治をしようとする開発政治派(胴体)、中堅議員からなる福祉政治追求派(手足) 頭部を強力に支持し圧力をかけているのが財界さらにアメリカ、胴体は党の執行権力を一手に握り地方の広範な地場産業層の期待を集めている。手足は、国民の期待の受け皿となっている。」

 頭部と胴体が存在することは容易に理解できるが、手足は本当に存在するのかこれも私にはわからない。純粋な手足は存在せず、多かれ少なかれ頭部と胴体の影響を受けていることは間違いない。
 ここが民主党の一番の弱点だと思う。要するに、アメリカにも財界にもものが言えないのである。おまけに利益誘導もしなければならない。具体的には安保堅持と米軍基地温存、大企業優遇の諸政策の枠から出られないし、縁故資本主義の枠からも出られないのだ。それでいて手足が福祉政治を追求しようにも出来ない相談というものだ。そこをしっかりとわかってほしいと思う。

 寂しい限りであるが、これが日本の政権政党の現状だ。ここからの出発、それしかない。

2010年8月14日土曜日

民主党は自民党よりマシか

 友人との会話で「民主党は自民党よりもマシだよね。韓国併合100年談話も出したし、明日靖国に行く閣僚もいないし。」と言われた。「  」の中だけを考えるとそうとも言えるかも知れない。しかし、とも思う。韓国併合談話を出したのも、靖国に行かないのも菅民主党内閣の方針のようであるが、菅民主党をしてそういう政策決定をさせたのは誰なのかを考えてみると、それはほかならぬ私たちなのではないかとも思う。もっと私たち自身、自信を持ってもいいのではないかと考えるのである。実際、民主党の構成員の考えは、菅内閣の方針と同じようにはまとまっていない。早速自虐史観に基づくものとの反論も出ているというのが現状である。

 私たちにとって民主党の存在意義は何か。自民党独裁政権を辞めさせ、同党をしばらく政権の座から遠ざけるておくことにあるといえば甘いだろうか。客観的な情勢は私たちの登場を待っている。しかし、これも客観的事実として私たちは残念ながら少数派である。こういう時期にあっては、期待はしないが監視と批判を怠らず利用できるところは利用する政党として割り切ったおつきあいをするのが一番適当だというのが私の結論だ。

 民主党も、第3次仕分けや平成23年度予算を組んでいく過程で新自由主義派がさらに力を持ってきたり、韓国併合100年談話を自虐史観に基づく談話とするようなグループが力を持ってくれば困った話であり、この時は世論によって袋だたきにしなければならないし、そうした勢力に菅内閣が飲み込まれるようであれば、菅内閣打倒というスローガンがすぐに出せるよう懐には持っていなければならないことはいうまでもないことである。

2010年8月11日水曜日

なぜ行政は放置したのか

 各地で行方不明の高齢者の居場所がわからないという事態が起こっている。行政側は調査して居住していないことが確認された場合には住民票を職権削除するという。確かに住民基本台帳法上は適法な措置である。しかし、この措置で一件落着と考える人はいるだろうか。それは役人だけの世界でつじつまがあってよかったねというだけの話であって、何故これまでわからなかったのだろうというのが誰しもこの事件について思う感想ではないだろうか。一体そのお年寄りは今どうしているのだろうか。これこそ万人が持つ感覚である。
 まず、お年寄りだから年金をもらっておられる可能性が高い。年金はご承知の通り年1回の現況届が必要である。この届け出はどうなっていたのだろうかという疑問がわく。現況届を促す文書が「転居先不明」「宛所に尋ねあたらず」で帰ってきたり、届け出がなければ「どうしたのだろう?」と考えるのが普通の人間の感覚だろう。ここでも旧社会保険庁は「普通の人間の思考方法」をもっていなかったし、非常に想像力に乏しい仕事をしていたことになる。
 ならば市町村はどうか。90歳を超えるお年寄りには敬老祝いが送られるケースが多い。我が高槻市でもこの制度があるが、私が母の時に経験したのでは、ただ宅急便で荷物が送られてくるだけである。本人確認はしない。敬老乗車証の制度もある。これも郵送されてくるだけで本人確認はない。昔はヤクルトがお年寄りに配布されていた時期があったとも聞く。この制度はなくなってしまった。さらに来年からは敬老祝い品の贈呈事業も縮小されるとのことである。どうなっているのか。
 こうしたお年寄り向けの制度には、単にお年寄りを優遇するにとどまらない地域の福祉を守るという大事な側面があることを忘れている。わずか数百万円の節約で「いのちの絆」という大事なものが失われていく。そこに行政担当者の想像力は及ばないのだろうか。行政から「福祉」も「いのち」もその感覚がなくなっていく。我が師、小西市議の「いのち第一、福祉は権利」が如何に今や貴重な旗となっているか改めて思うのである。

2010年8月10日火曜日

貧困大陸アメリカⅡを読む会

 今日は貧困大陸アメリカを読む会だった。アメリカの医療業界のすさまじさが読み取れる。しかし、笑ってはいられない。日本でもその状況は進行しているのだ。どこで進行しているか。後期高齢者医療と言われる分野でである。
 政府は後期高齢者医療の中間のまとめを審議会に出した。マスコミはこれを好意的に受け取っているが、私はこれは大変な問題をはらんでいると思えてならない。まさに、市場原理主義の医療改革版の押し付けそのものだからである。
 確かに被保険者はもとの保険に戻る。しかし、これだけが宣伝しすぎられてはいないか。国民健康保険の世帯員の納付義務がなくなるというが、これは世帯主に移るだけのことである。さらに中間見直し案は「財政の安定化と保険料の公平化に寄与した。」とまで言っており、何ら後期高齢者医療については反省はしていないのである。さらに保険給付総額の10%を後期高齢者(75歳になるのか65歳になるのかまだわからない)が負担するという財政上のシステムは変えないとはっきり言っているのだ。そして国保は広域化するという。
 それでは広域化すれば国保は成り立つのか。全国で2番目の広域化が図られているといっていい大阪市で見てみると、大阪市の国保は大赤字なのである。累積赤字は364億円、40年前の1971年当時から1億7千万円の赤字が発生、そこに、国からの調整交付金が収納率が低いからと188億円、福祉医療など国の制度にない特別な医療費助成をやっているからと188億円のペナルティが科せられてこうなったのである。つまり、国からの調整交付金が削減されたことが大きな赤字の原因になっているのである。だから、国からの援助をそのままにして、いくら広域化しても国保の赤字は減らないのである。
 広域化についても、案が出てからしばらくして後、長妻厚労相は都道府県が保険者になると言ったが、都道府県はこれに反対で、後期高齢者医療で非民主的な期間としてこれも不評だった今のままの特別地方公共団体「広域連合」してほしいと言っている。
 うがった見方をすると、2008年10月に政管健保がきょうかい健保に代わり、都道府県単位になった。将来的にはこの保険とも一緒にし、事業主負担を軽くしていくのではないか。そして、大企業従業員や公務員(教員、警察官、自衛官を含む)は組合健保や共催などの特別な保険、貧乏人は赤字まみれの地域保険と棲み分けさせられるのではないかという心配もはたらく。
 さらに、後期高齢者医療制度で不人気だったフリーアクセスを制限すする「かかりつけ医」制度は健在だし、「重複頻回受診者の訪問指導」まで新しく付け加わっている。また、保険料の上限を現在の63万円から93万円まで引き上げるという。もう無茶苦茶だ。そして感心の財源部門に国が如何にかかわっていくのか全く触れていない。
 要するに保険だけ変えて、医療保険財政から国は財政的にどんどん撤退していく、そういう方針が中間まとめで示されているのである。
 さらに恐いのは、革新政党でさえも、老人保健制度に戻せと言っているだけで、老人福祉としての医療費無料化は言っていないことである。後期高齢者医療の原型は老人保健制度にあったことを忘れてはならない。革新政党は、老人保健制度が出来たとき、自分が言ったことを忘れてしまったのか。心許ない限りである。今こそ、老人福祉制度として行われていた当時まで考え方を戻し、その上で新しい医療保険制度のあり方を考えていくべき時ではないだろうか。

2010年8月9日月曜日

おわび

 先週は忙しくて全くブログの更新が出来なかった。お詫びしたい。
 地域のミニ懇談会の準備、広島での反戦平和の催しへの参加、会議、高槻市変革の処方箋の作成などに追いかけられついついおろそかになってしまった。
 やっと、高槻市変革の処方箋が今出来上がったところである。あと少しの推敲を残すのみ。励ます会で皆さんのご意見をちょうだいして修正の上、会員さんの意見をさらにお聞きしていくという手順になっている。それを受け、さらにリーフレットにしていく。そんな計画である。皆さんの手元には9月上旬には届くはず。どうぞよろしくお願いします。

2010年8月2日月曜日

暑い!

 皆さん昨日の晩は暑かったですね。たまりませんでした。家族一同うめき合いながら寝ていました。私の家では窓を開けっ放しにして寝るのです。寝室というか布団を敷いている部屋にはクーラーはありません。扇風機だけですごすのです。それでも結構夜になるとこのあたりは田舎ですから涼しいのです。ところが昨日の晩だけはどうもいけませんでした。何回も起きてお茶を飲んだりトイレに行ったりでした。

 今日はミニ集会があったので、後期高齢者医療について話してきました。後期高齢者医療については、中間のまとめ案が提示されていますが、これは被保険者を形式的にもとの健康保険に戻すだけで、財政的には平成20年に始まった後期高齢者医療の考え方を踏襲したものであり、根本的な解決は全く図られていないことを暴露してきました。フリーアクセス制限しかり、医療費の抑制の仕組みしかり、「かかりつけ医」、広域化の考え方しかり、です。さらには、重複・頻回受診者の訪問指導まで出てきています。こんなものはとても改革と言えるものではありません。健康保険を後期高齢者医療化するもの、国民皆保険制度を後期高齢者医療の改善に名を借りて破壊するものに他ならないことを訴えてきました。しゃべっていながら腹が立って、腹が立って。

 これから衆議院予算委員会の中継を見ます。また腹が立ってくるかも知れませんが・・・・。